生け花の歴史  その2
 今週のゲストは、生け花草悦流家元の猪野伸一さんです。今日のテーマは「生け花の歴史について その2」でお話をお聞きします。
猪野さんはフラワーショップ花樹を経営されるかたわら、家元活動や所属する華道協和会の活動もされご多忙な毎日です。
 昨日は生け花の成立から少し歴史をお話いただきました。今日はそのあたりを別の観点からお聞きしたいと思います。
生け花は「茶道」などと成立当初から関係が深かったのでしょうか?
また「担い手は」武士階級や町人階級、僧侶階級だったのでしょうか?

 生け花と茶道は切っても切れない関係にあります。ちょうど室町時代に生け花が日本の社会に登場してまいりましたころ、茶道におきましても、当時は「茶の湯」と称していました。
 村田珠光、武野紹鴎とか、千利休に至りまして、茶道は大成いたしました。茶道を行います空間は茶室と申します。四畳半の茶室に、1畳の床の間をつけています。というのがその当時の決まりでありました。


 そして床の間に飾るのは間違いなく生け花でありました。小さな花瓶に一輪を活けるという 、いわゆる「茶花」と申すものでした。そのようにお茶と花は一体となって当時の社会に受け入れられていました。さて当時の社会と申しましても、一般の庶民に間には普及はしていませんでした。
 当時は普及していたのは寺社の僧侶、公家達、富裕な商人層、上級の武士達でした。その人たちが当時の茶の湯の担い手であり、そしてまた生け花の担い手でもありました。

猪野伸一さん
 生け花と建築様式は関係が深いのではないでしょうか?
伝統的な日本間では、床の間があります。掛け軸と生け花も連携があるようなのですが?書院造という建築様式が確か日本史で習いました、金閣寺だとか銀閣寺の時代でしょうか。その建築様式と生け花との関係はいかがなものなのでしょうか?
 大いに関係しています。平安時代は寝殿造りという建物でした。室町時代になりますと書院造の建物が流行りました、時代が下り江戸時代になりますと数寄屋造りという建物が出現いたします。
 書院造りの大きな特色は、必ず床の間があります。当時は押板と呼んでいました。この押板に中国から伝来した壷、唐物と申しますが飾りました。あるいは掛け軸を掛けました。そうした決まりごとがだんだん成立していくわけです。そのときに必ず床の間に花を飾りました。それも決まりごとになりました。
 書院造りの代表的な建物である銀閣寺。正式名は慈照寺。時の将軍足利義政は文明14年(1482)、この地に東山殿を造営し、風流に明け暮れた。茶道、華道、香道などはここから隆盛したと言われています。
 昨日は日本の自然の特性や、日本人の精神的な背景の話を伺いました。明治時代や、二次大戦の敗戦などの経験は生け花にも影響を与えたのではないのでしょうか?
 近代化によりそれまでの担い手であった武士階級や、町人が没落し、市民が生け花をやりだしたのはいつごろなのでしょうか?欧風化の影響は生け花にはあるのでしょうか?
 生け花が飛躍的に流行った時代があります。それは江戸時代です。元禄時代ですね。そのころ世の中は平和になりました。幕藩体制が軌道に乗りました時期でした。そして一番大きなポイントは僧侶や、公家や武士階級だけではなく町人層の社会的地位が大いに上昇した時代です。地位が上がると言うことは物質的、経済的、精神的に余裕が出来ることです。そのころからその階層の婦女子が生け花に手を染めることになりました。
 さてその後明治維新によりまして社会は混乱しました。生け花は一時衰微しました。やがて明治の中ごろから後半にかけまして、世の中が安定するとともに、改めて生け花が飛躍的に盛んになりました。これが第2の生け花の発展期ではないかと思います。
 第2次世界大戦で日本は壊滅的な被害を受けました。暫く敗戦後は余力がありませでした。私なりに生け花の歴史を調べますと、生け花は、外国人に高い評価を受けてきたのではないでしょうか?敗戦後もGHQ(占領軍)の夫人達が生け花に高い関心を持たれていたように書物には書かれてありましたが・・・流派が復活したり、新たな流派も出来たのでしょうか?
 また生け花が勃興してきましたのは戦後のいつごろからなのでしょうか?
 生け花と外国との関わりの質問を受けました。既に明治時代に日本の生け花がヨーロッパの方に紹介されています。戦後はGHQの夫人達が生け花を高く評価をいたしました。
 日本の生け花は日々の日本の一般家庭のなかで、繰り返されてきた「生活芸術」ではないか。そして、生け花の古典と呼ばれるものが、能楽や歌舞伎と同じように鑑賞するに値する芸術であると彼女達は認識したのでした。そしてその経験をもとに母国へ帰国した折に、日本には生け花と言う素晴らしいものがあると。欧米とくにアメリカ社会に広がりました。
 日本の伝統芸能である能。外国では高い評価を受けている文化的資産であります。
 カルチャーとして受け入れる素養が彼女達にあったのでしたね。欧米人は生活も豊かだし、文化的な教養もあるので生け花を受け入れたのですね。
 そういうことでしょう。生活や精神的な余裕があったからでしょう。また日本の芸術文化は浮世絵のように19世紀末から欧米の社会に大きな影響を与えてきていましたので、受けいれられやすい素地はあったのではないかと思いますね。

 江戸末期の浮世絵は19世紀の印象派の画家達に大きな影響を実際に与えました。

 高い創造性と独創性が評価されたのでしょう。その文化的な背景があって、生け花もまた高い評価を受けたのでしょう。

写真は猪野伸一さん提供