住民のための復興とは?
 今週のゲストは(有)夢千年の暮らし PRODUCE&DESIGN代表であり、日本民家再生リサイクル協会黒田武儀(たけのり)さんと、地元高知でNPO法人「我が家を見直す会」事務局長の西田政雄さんです。
 2人は3月19日、ソーレで開催される「震災からの復興〜今 そしてこれから」の実行委員会をされています。西田さんは実行委員長。黒田さんは討論会の進行役です。主催者側として関わっています。今日のテーマは「住民のための復興とは?」でお話を伺います。
まずそのフォーラムですが、パネリストに新潟県中越地震で罹災された人、阪神大震災での罹災者代表や、土佐清水市の水害罹災者代表の人がパネラーになっているそうですが。どういうところからネットワークされたのでしょうか?

西田 今回のフォーラムは、一部と2部に別れています。一部は山古志村を舞台にした映画(「掘るまいか 手掘り中山隧道の記録」)をきっかけなんですけれども。
 進行役を努めていただいています黒田さんが、長島忠美山古志村村長と知り合いだということで、是非被災した方々のお話を聞きたいと。ついでにとと言っては失礼ですが、神戸で(1995年の阪神・淡路大震災以来)既に10年経過してその復興の苦しみを知っている方にも来ていただきます。


 また高知でも手島慶考さんとおっしゃる土佐清水市の西南豪雨で苦労なさった下川口地区の区長さん。この方も来ていただきます。
 このあたりは防災や、災害や、ボランティアの皆様方もネットワークがありますので、今回みなさんのご紹介やご協力があり、ご登壇いただいくことになりました。

西田政雄さん
 チラシを拝見いたしますと先ほどのお話になりました「掘るまいか」という映画の上映が第1部にありますね。それはどのような映画なのでしょうか?
西田 昭和8年。戦前ですね。ずっと掘り続けて昭和24年までの16年間山古志村の1地域の方達が、100世帯ぐらいですけれども、その地域を2分してまで、自分達のために命の道をつくろうということで、つるはしだけで手で掘られました。その物語です。

(新潟県山古志村周辺地域は豪雪地帯。冬は雪で交通が遮断され急病人の輸送もままならない。そこで山古志村村民は、自ら立ち上がり手堀でトンネルを掘りました。16年もかかったそうです。行政の補助は殆どなく住民の力だけで完成されたそうです。)


 それは行政の力に依存せず、自分達の力で、共同体と言いますか、いまの言葉では「住民力」で達成されたということですね。
西田 そうですね。橋本大二郎高知県知事も「住民力」ということをしきりに言われています。先人が残した歴史の中で、山古志村の手掘りの隋道はもっともはっきりした成果ではないでしょうか。
 この地区は豪雪地帯です。盲腸を患っても死に至るわけですね。山を越すのに6時間かかりますから。
 黒田さんにお尋ねします。この「掘るまいか」のトンネルの話ですが、昨年新潟中越地震が山古志村を直撃いたしました。
 どうなったのでしょうか?苦労して掘られたトンネルは無事だったのでしょうか?新潟県各地では道路やトンネルの崩落が多発していましたし。また山古志村の村長さんもご多忙の中わざわざ高知まで来られます。そのあたりの事情をお話いただけますか。
黒田 私は山古志村に特別な思いがあります。10年前になります。ちょうど阪神淡路大震災の時に私は新潟で仕事をしていました。
 その時に山古志村に3度訪れています。世にも美しい村。日本の山村の「原風景の村」であるという想いがあります。
 山古志という名前はひじょうに深く印象に残っていました。地震で山古志村が壊滅的な被害を受けた。そうなったものですから。矢も立てもたまらなくなり。公安委員会に申請をしまして、緊急車両のカードを発行してもらいました。
黒田武儀さん
 誰も入れないときに、私はどうしても一緒に行きたいという中学生の息子と、神戸の被災者、今回のフォーラムで参加いただいています。一緒に新潟県長岡市まで行きました。
 その時に、山古志村へ入るのだけは止めて下さいといわれました。そこで山古志村の村長さんや、村の人達に会いました。今回高知へ長島村長に来て頂きますが、最初のきっかけでした。
新潟中越地震。西田政雄さんより写真を提供いただきました。
 現状はどうなっているのでしょうか?山古志村はどのようになっているのでしょうか?

黒田 今は積雪が約2メートルあります。全く村には入れません。全員が長岡市で暮らしています。それで、私は村の状態を考えれば、普通客観的に見れば、村を捨てようと言ってもおかしくありません。
 壊滅的な打撃を受けているのですから。その部外である我々が、何らかの形で、知恵や力を貸すとすれば、村民の皆さんが本当に村に帰りたいかどうかにかかっているよ。ということで私が行きました時に、長島村長にお願いしまして体育館で、本当に村民の皆さんが村に帰りたいかどうかいう風に尋ねました。


 その夜に長島村長は3つの体育館を廻っていただきました。その結果は圧倒的多数の村民が村に帰りたい。どうしても帰りたい。
 村長が「どうしてもか」と聞いたそうです。そしたら、「どうしてもだ」と皆答えられたそうです。それならば私達は本気になって村の人たちと結んで何10年かかるかわかりませんが、昔の美しい村になるように一緒にやろうよ。と言う風になったのです。

収録の様子です。ご多忙な2人です。フォーラム開催の1ヶ月前の2月18日の午後高知シティFMで収録いたしました。

当日黒田武儀さんは、愛知県の自宅から午前5時に出られ車で高知に来られました。

高知シティFM放送Aスタジオです。)

 
 「掘るまいか」の手堀で16年の歳月でこしらえたトンネルは、今回の地震では無事だったのでしょうか?
黒田 全く壊れてはいません。他の新しいトンネルは崩落しました。
 新しいトンネルが崩落したのですか。手掘りのトンネルは全く壊れていなかったのですね。それだけ固い岩盤のところを掘られたからあんおでようか。
黒田 そのとうりです。山古志の土壌はひじょうに脆い。あえて当時の村の人たちが、脆い部分ではなく、固い岩盤を選んで掘りぬいたところに大きな意義があるのです。
山古志村は棚田が有名です
日本有数の豪雪地帯です。
 
 *黒田武儀さんによれば、山古志村は棚田と錦鯉で有名です。棚田は山が崩落した跡地に出来ています。山古志村の土は水を含みますと、とろとろし脆いのです。
 水を貯めることによって崩落を防いでいるのです。水田と鯉の養殖がそうでした。鯉も最初は黒い鯉で、主に蛋白源であったのでしょう。それが突然変異で錦鯉が現れました。今や日本有数の錦鯉の産地になっています。先人の知恵が自然と共存し、生活を作り出し、美しい棚田の景観を形成したのです。
山古志村の錦鯉については    http://www2.ocn.ne.jp/~yamakosi/nishikigoi/shurui.html
山古志村の写真などは、山古志村商工会のホームぺージの写真を掲載させていただきました。