復興に住民がどう関わるか?
 今週のゲストは(有)夢千年の暮らし PRODUCE&DESIGN代表であり、日本民家再生リサイクル協会の黒田武儀さんと、地元高知でNPO法人「我が家を見直す会」事務局長の西田政雄さんです。
 2人は3月19日、ソーレで開催される「震災からの復興〜今 そしてこれから」の実行委員会をされています。今日のテーマは「復興に住民がどう関わるか?」でお話を伺います。
 大災害の直後は、罹災住民はすぐには復興事業には関われません。しかしやがて精神的な安定期が来ますと、様々にお復興事業に関わるようになります。望ましい関わりかたについてお話を伺います。
 まず西田さんに伺います。阪神・淡路大震災から10年経過いたしました。先日現地に行かれたようですが、状況などはどうだったのでしょうか?
西田 1月16日、17日と2日間神戸市とくに長田地区を中心に歩き回りました。地震前の以前の長田というところは、どちらかと言いますとこ汚いイメージでした。今はひじょうに綺麗な新興の街、タウンになっています。
 地下鉄まで通っています。
 長田の人たちとお話をしました。本当に復興できたのか。それを含めてお話をいたしました。ひじょうに興味深い話をこのときに2つ聞くことが出来ました。
 1つは、神戸のほうで民生委員をされている人と話をしました。神戸の市民は、特に長田地区の市民は「マスコミにかなり殺された。」
 ぴんと私は来ませんでした。兵庫県内でもこのことが言われています。「どういう事なのですか?」とお尋ねしました。
 それは「つぶされた瓦礫の中でっ虫の息の人たちがいますのに、救いを求めていましても、マスコミが絵面の良い絵が撮りたいから、ヘリコプターが超低空でホバリングをする。そうするとものの1メートルも離れていないに、お互いの話し声も聞こえない状況になります。
 どうやって瓦礫の下で助けを求めている人の声を聞けるのでしょうか。」と。
  これはやっぱり長田を中心に神戸の方々はマスコミにかなり突っ込んで行きました。文句も言ったらしいですが、「報道の自由」ということで相手にも余りされなかったようです。
 それからもう1点です。今回3月19日に高知でのフォーラムにおいでいただきます石井弘利理事長(神戸市鷹取商店街振興組合理事長)ですが、この方とお話した時に、「長田の人数は減りました。震災前の7割程度です。もとから長田に居住されていて復興以後帰られた人は半分なのです。」とのことでした。
神戸市は外観は復興しています。
空き地が目立つ地区もあります。
討論会も開催されました。(写真は西田政雄さん提供)
 
 これはやはり「行政は復興の名を借りた二次災害、三次災害ではないだろうか。都市計画と名を借りた人災を受けたのだ。」と大変怒っておられました。
 10年経過しましても、神戸ではそうした問題点があるのですね。どうやら解決していないどころか、まだまだ問題点は山積みされているようですね。
1995年の阪神・淡路大震災の様子。(写真は神岡俊輔さん提供)
 
西田 そうですね。歯抜けのように空き地が一杯あるとか。駅を降りたところに街を見れば綺麗になっていますよ。お洋服を着せたように。
 ところが、住民の方々の心の中では、二重三重に背負い込んだ借金の問題とか、いろんな意味で復興にはまだまだ程遠いと言うお話を聞きました。

 10年経っても10年では復興は出来ないのでしょうか?
西田 とてもではないですけれど、無理ですね。地震で打撃を受けてときにかなり借金を返済されていた人と、あたらに業務を拡大して借金を背負った状態で打撃を受けられた人との違いはありますね。
 お金を借りたタイミングがあるということですね。
 しかしあの当時、神戸や関西に地震が来るなんて誰も予想しなかったと思いますね。関西の人たちは地震保険などは入っている人は少なかったと思いますね。
 静岡県などは30年ぐらい前から地震がくるぞと常に訓練をしていましたのに。
西田 450年周期だそうですよ。
 新潟などでは、1964年に新潟地震がありましたね。地震に対する心がまえは関西の人たちよりはあったのではないでしょうか?
黒田 新潟地震は海沿いでしたし。山間部の地震については想定もしていなかったと思いますね。
阪神・淡路大震災当時は、私は鎌倉市に住んでいました。新潟へ「日本1の道の駅」づくりのプロジュースのために、新潟県東蒲原郡三川村に通っていました。
 東京都内を抜けないと新潟県に高速でいけないものですから、たいてい真夜中の午前2時に鎌倉を出ます。そうしますと都内をすいすいで「走ります。関越自動車道へ入ります。そうしますと早く新潟に着きすぎます。
 時間調整をサービスエリアでするのですね。たまたま10年前の1月17日は、午前5時40分くらいにサービスエリアに入りました。
日本1大きな道の駅
 そこでテレビの前に黒山の人だかりがありました。画像は最初のNHKの部屋が何度も写され、棚から物が落ちるような映像が繰り返し放映されていました。
 これは凄いとおもいました。当時新潟で担当していた商業施設は4月オープンですので、1月17日と言いましたらしなければならないことが山のようにあります。
 それから、あしかけ3日新潟で打ち合わせをしました。そして北陸自動車道路を通って神戸へ行きました。ただ東から行きましたので。
 後で神戸の人から聞きたら「迂回して西から神戸に来ればよかったのに」と言われました。
 知らないので東から行ったので、途中で車を捨てざるを得ません。警察官はキーをつけて行けと言いましたが、誰もキーをつけてまま車を離れる人はいませんでした。
 後は徒歩で行きました。西宮市、東灘、芦屋市に行きましたね。
 阪神高速道路の高架がひっくり返って付近も行きました。あの近くの恵比寿神社がありました。あそこの土塀は昔豊臣秀吉時代の土塀です。
 土の塊を積んでいるだけで、漆喰を塗って、屋根を葺いただけ。こちらは全く壊れていません。高速道路の高架は見事に壊れ倒壊しているすぐ近くなのにです。
 鉄筋もなにも入っていない。実に奇妙な光景ではありましたね。
 黒田さんが直後に行かれた事情はよくわかりました。もう少し当時の神戸市の状況についてお話をお願いしたいと思います。
黒田 大変奇妙な符合です。たまたま新潟で仕事をしていて、その10年前の1月17日の朝は新潟のサービスエリアで神戸の様子を見ていて、またその仕事の関係で山古志村にも行っていましたし。
 そして現地へ行きました。当時は罹災地はコンビニもなにも開いていませんし、(今回の新潟はコンビニはその神戸の教訓が活かされ開いていました。)
 外から入った私達も、神戸の罹災者の方々も同じ状態に置かれます。水もなければ食べ物もない。公園でみんなで炊き出しのトン汁を作っていました。
 トン汁を罹災者から私達がご馳走になりました。救援物資を分けていただいて罹災地を見て廻りました。
 私は古い木造住宅や土塀が、高速道路の高架が倒壊しているすぐ側で、全然被害を受けず立っている奇妙な取り合わせを現地で何箇所も見てきました。
 
 罹災直後の住民同士の繋がりや、絆は特別なものなのでしょうか?
黒田 とても不思議に感じました。あれだけの酷い災害を受けた人達が、公園で奇妙な連帯感を持っていました。みんなが一つになって助け合うということが、別に誰かが掛け声をかけて、しているわけではない。
リーダーがいるわけでもありませんでした。
 三々五々公園に集まってきた人達ですね。もともとは大変なお金持ちの方もいたでしょうし、そうでない人もいたでしょう。でもそこではなんの差別も無く、差もありません。奇妙な連帯感がありました。明るいし。
 でもそれは罹災後ほんの1週間ぐらいのことでしたが。
罹災直後の神戸市
自衛隊の復旧作業の様子です。
 

 1週間を過ぎますと、「格差」が出てくるのでしょうか?

黒田 もとどうりの暮らしに戻る人たちが出てくるのですね。取り残される人たちが出てきます。これは新潟でも同じことが起きています。
 今でも10年経過した神戸でも、そのことが「尾を引いている」のです。