人として共存する社会のために
 今週のゲストは、高知市障害者福祉センターでソシャールワーカーをされています竹村利道さんです。今日のテーマは「人として共存する社会のために」です。
 人間として生まれた以上、皆幸福になる権利はあります。障害者福祉センターのホームページにも「ハンディキャップは、個人ではなく社会に存在するとの正しい認識」を持つことと書かれています。
「保護」ではなく、「機会均等の支援」から始まるとも言われています。竹村さんが今まで活動されてきたなかで、強く主張したい部分はどういうところにあると思われますか?
さきほども「保護ではなく機会均等の支援」と言うことで紹介いただきました。どうしても守らなければならない弱い方もいらっいしゃいます。でもすべての障害のある人が「力がない」「弱い」「守らなければならない」というで、本来持っている力を失わせてしまうような保護があったような気がします。そうではなく、その人が持っている精一杯の可能性を支援していくためには、障害のある人にも少し苦労(良い意味で)をしていただくというチャンスを与えられるような、チャリティではなくて、チャンスを与えるような福祉がこれから必要であると思います。
従来は福祉は100%行政が施すものでした。「無償の行為」と考えられていました。今は少し変化しているようですね。 企業の姿勢は変化を感じられますか?NPO法人はどうなのでしょうか?
沈しないアクセスディンギー
ごめん・なはり線
アクセスディンギー
少しずつですが、今までの福祉のあり方に対して反省が出てきています。私もNPOを始めていますけれども、NPOの活動は、もしかすると「今までこうだ」という既成概念を壊す活動かも知れません。今まで行政を中心にして行われていた福祉と言うものは、「弱者救済」が基本でした。そうではない視点を持ち込むことが出来る。そうしたNPOの活動は大切にしたいと思っています。
高齢化社会になりつつあります。「人にやさしい社会」に変化しなければ、いけないと思います。一方で競争社会の進展もありまして「競争に敗れてしまったものは、なくなってしまえ」という風潮もあります。最近の経済原理の押し付けもあります。実行しなければならないことは沢山ありますが、竹村さんが思われる優先事項は何ですか?
私が考える優先事項は「基本的には、頑張った人が報われる。」ということを、障害のある人,ない人に関わらず適用されるべきだと思います。その後大事なのは「頑張ったけれども失敗した」人にもう一度チャンスを与えることだと思います。そういうネット(セフティネット)が必要です。
それは「人として共存する社会」には不可欠な原理原則ですね。今それこそ地方都市でも商業集積型の経済が進行しています。1極集中。東京への集中が加速しています。それと異なる経済システムづくりが必要であると思います。

そうですね。基本的には頑張ることを大切にしたいと思ってはいますが。でもどうしても駄目だった人が出てくるときに、いかにやり直しがきくかというようなこと。障害のある人でも努力をすることの大切さを理解いただきたいなと思います。
南海地震対策が言われています。福祉施設や障害者への対策についてはどうなっているのでしょうか?安全対策や避難対策、救援を待つ間の対策などより大変であると思われますが・・・。
一般の方もそうでしょうが、高齢者や障害者が地震時などに孤立するのではないかと危機的に感じています。もう記憶に薄れてきたと思いますが、西南(高知県西部の土佐清水市)で豪雨災害がありました。そのとき亡くなった方が奇跡的にいませんでした。それは地域のつながりでした。どこに車椅子の人がいて、どこに高齢者の1人暮しなのかを地域の人達が把握されていました。真っ先にそこへ通報し、救出に行かれたのが大きかったと思います。ですが都市化が進んだ高知市では、隣に誰が住んでいるのかわからない。障害のある人がどこにいるか見たこともないわけです。そのあたり、コミュニティの復活と言いますか、形成をもう一度考えることが時間はかかりますが、大事なことだと思います。

高校生や学生などの意識は変化がありましたか?若者が変われば、社会も変わるはずです。
いままで考えられてきた障害者理解の仕方を少しつ変えようとしてきました。「かわいそうな人に愛の手を」という観点から、「ともに生きる」と考える若者が少しづつ増えて来ました。同じことは障害のある人にも言えることです。障害がありましても一生懸命頑張ることが大切です。新たに障害のある人が考え始めて、ともに手をつなぐことが出来れば、本当の「平等」は生まれてくると思います。
竹村さんとお話して感じましたことは「福祉は無償のサービス行為だ」「障害者は100%保護されなければならない」という考え方から脱却して行こうではないかということを強く言われています。どういう観点から言われているのでしょうか?
車椅子利用者の海水浴
ヤ・シーパーク(2003年)
障害があっても、なくっても生きるためには一生懸命になるということは、本当に「平等」だと思っています。だから「立ち上がって歩け」というつもりは全くありません。目の不自由な方に目が見えるように訓練しなさいと言うつもりは全くありません。与えられた情況の中で一生懸命頑張るなかでしか、理解は生まれてこないと思います。そのためにどうしても不足している部分は助け合いが必要です。そういった中でこそ本当に「ノーマライゼーション」が生まれてきます。そういう意味ではどこかへ食べに行って「割り引いてもらう」現状ではなくて、いつでもどこでもお客さんとして受け入れていただきために、積極的に外へ出て行くことです。そうしたなかでお店の人もいろんな障害者向けのサービスが現れて、ビジネスとしても福祉が定着するのではないでしょうか。
今の社会は車社会で、高齢者や障害者が出掛けるのは難しい時代です。逆に車の設計や、道路や都市の設計を考えて、「人として共存する社会」を早急にこしらえなければいけない。と思います。皆わかっているのでしょうが、社会運動としてうねりにはなってはいません。社会運動としてのうねりはどうなのでしょうか?

これから先は高齢者、障害者の比率が高くなります。この人達に消費活動にも参加してもらうことになりませんとどんどん街の活力は低下します。街を闊歩する高齢者や障害者が現れてくる。そんなところが、本当の意味でのお客さんとして受け入れられるし、そうしますと街も高齢者が増えたとしても元気になります。