高野切れの文化価値と所有する価値について
 今週のゲストはリバプール企画代表である矢野啓司さんです。矢野さんは元国家公務員で、英国とインド等に赴任されていました。カントリー・レポートライターをされていました。世界50カ国を訪問されています。
 今日のテーマは「高野切れの文化価値と所有する価値について」お話を伺います。昨年末に高知県が約7億円で、山内家から「高野切れ」等の文化資産を購入いたしました。財政難ゆえ県民各位で論議を呼びました。
 矢野さんは独自の見解をお持ちです。どういうご意見なのでしょうか?
今回高知県の購入した「高野切れ」などの文化資産。詳しい内容や価値はわかりません。
  国宝級のものもあるようなのですが。具体的にはどのようなものなのでしょうか?

 実は私は「高野切れ」は初めて知りました。私の娘が東京大学文学部の大学院で日本史を専攻しているのですが、彼女に聞きましても「それなあに?」というぐらいでした。


 たぶん専門家の中でも知名度は低いのではないかと思います。ただ「高野切れ」は土佐の国司であった紀貫之が古今和歌集を編集して、彼自身が書家として書いたものです。


 それがオリジナルにありまして、約150年後に写本をしました。現在残っている最古のものです。それを山内家が土佐藩主ということで、大切に維持してきました。それが「高野切れ」です。

矢野啓司さん
 歴史書としての価値もあるのでしょうか?
 多分歴史書としては、あまり価値はないでしょう。私はむしろ紀貫之は土佐日記で「おとこもすなる・・・」ということで、「かな文学」を作り上げました。
 「高野切れ」は、和歌で、かなの書です。そういう意味で「日本語表記」の問題で非常に重要であると思います。
 現在東アジアでは、韓国ではハングルを使用し、漢字を使っていません。中国は略字をたくさん使っています。日本は漢字とかなの混じるきちんとした文字の世界を形成しています。という歴史のある漢字とかなを使うということが、大きな歴史的な意義があると私は思います。
高知県立文学館で公開された「高野切」。1000年以上も保存されていたことには驚きです。
 
 高知出身の作家坂東眞砂子さんは「支配者の文化遺産を税金で購入するのはいかがなものか」のような意見を言われていました。これに対し矢野さんは地元紙読者投稿欄で反論されていました。
 矢野さんの反論理由は何でしょうか?

 私が一番気になりましたのは、「支配者の文化と民衆の文化」を対立させて彼女が主張していたことです。「高野切れは山内家の持っていたものだ」。それに対して「「農民、町民、海の民、山の民の文化は違うのだ」と言われています。だから山内家の持っていたものを県が購入し、所有するのはおかしいのではないかと言われました。


 なぜ「支配者の文化」「庶民の文化」とわざわざ言わなければならないのでしょうか。その意識や発言が気になりました。
 後、「支配者の文化であるから、公金(税金)を使用してはいけない」ということになりますと、現在博物館や資料館にあるもので、良い所蔵物はかつての支配者の所有物でした。「ではそれを散逸させても良いのだろうか?」という問題にもなるのです。
 民衆由来の文化とされる文化財も、研究が進めば、支配者の影響が何か出てくると思います。そうすると保存するのもが無くなってしまうということにもなりかねませんね。

かつては山内家の支配の象徴であった高知城。今は観光客に開放されています。
 
 高知県民が「高野切れ」を保有する文化的価値はどのようなところにあるのでしょうか?
 まず高知県が、本物を持つことに価値があると思います。「ビデオやコピーを持ったほうが安いのではないか」という意見もありました。博物館で本物を持たないで、ビデオや写真やコピーでは本物の迫力は伝わらないでしょうし、問題は多いと思いますね。
 次に高知県はシャガールを持っています。シャガールを持つのであれば、「自らの文化財こそ保存すべきだ。」と思います。自らの文化的財産を持たないで、他人の文化財を大切にして、どうするのだと思いますね。
 「自ら」と言いますのは、紀貫之もそうですし、山内家もそうです。やはり「土佐の国」というキーワードであると考えています。
 土佐が紀貫之を通した日本語の発展に寄与したという自負も必要であると私は思います。
 矢野さんは「支配者の文化」「民主の文化」を現在の観点から区別することは危険であるとご指摘されています。それはどのような理由からなのでしょうか?
 支配者の文化、民衆の文化ときちんと線引きができるのでしょうか?
 支配者の文化だから駄目だなんて言っていましたら、高級なものはなくなります。民衆の文化と言いましても、必ず相互に影響しあっています。
 支配者の文化の影響の無いものと言いましたら、なんにもなくなってしまいます。

 こういう不毛の議論をいくらしてもしかたがないのではないか。それがわたしの視点です。

 文化と税金の使用について外国ではどのような考え方なのでしょうか?私は旅行したのにすぎませんが、アメリカでは歴史博物館などの入館料は無料か格安でした。税金はその文化遺産保持に使用されるからだとの説明でありましたが・・・。
 

 アメリカはセントルイス市にある「ウエスタン博物館」。昔は西部開拓の人たちは、ミシシッピー川のそばのセントルイスに幌馬車で集まり、川を越えたら「西部」と覚悟を決めていたそうです。

 展示品もその西部開拓時代のものが集められていました。大人たちが子どもに郷里の歴史について、きちんと説明できる「装置」が歴史博物館なのです。

 世界中を廻りましと、ヨーロッパやアメリカなどでは、確かに格安か、無料が多いと思います。
 まず私は訪問した国では、博物館を訪ねます。博物館を見た後に、書店へ行きます。その国の中学生、高校生程度の歴史教科書を購入します。
 それはどういうことであるか(ポイント)と申しますと、博物館を訪ねれば、その国のプライドが見えてきます。みなさんが何を大切にしたいのかがわかります。逆に博物館にないということは、何を捨て去ろうとしているかを推察できます。博物館を見ることで、どんな 維持活動をしているか。非常に良い展示をしているのか、管理をおざなりにしているのか。そこで「社会が見えてくる」のです。
 あと教科書を購入する意味は、その国の歴史認識の公式見解が出ています。大人の本ですとあまりに詳しすぎます。中学生・高校生用を見ますと一番大切なことが書いてあります。
ジンバブエの国立博物館の展示
展示を授業で見学するジンバブエの小学生
 
 高知県にその観点を当てはめますと、どうなのでしょうか?
 外国人がツアーで高知県にたくさん来ています。彼らは高知で何を見たいかといいますと、桂浜ではありません。高知城とか、歴史民俗博物館だと思います。
 それを見て、展示物を見て、管理の内容を見て、高知県を見ているわけです。一番肝心要の重要なポイントがあると思います。「博物館は県民のためでもあるが、県民の外部評価の視点でもある。博物館は民族の最高広報機関でもある。」ということですね。


 そうしますと現状ではかなりシビアな評価になるのではないでしょうか?

(高知市上町の「龍馬が生まれた街記念館」です。)


 なると思いますね。ですから肝心要の「高野切れ」を持って展示を、異民族、世界中の人がわかるような視点でしなければいけないと思っています。