支配者と民衆の文化をことさらに区別する必要がありますか?
 今週のゲストはリバプール企画代表である矢野啓司さんです。矢野さんは元国家公務員で、英国とインド等に赴任されていました。カントリー・レポートライターをされていました。世界50カ国を訪問されています。
 今日のテーマは「支配者と民衆の文化をことさら区別する必要がありますか?」でお話を伺います。
学校教育制度が普及する以前の社会では、文化的教養があるのは、ごく一握りの支配階級でした。古典といわれる文化遺産はすべてそうだと思います。矢野さんは「現代の視点で過去の文化活動を批判するのはナンセンス」といわれて居ますが。
 現在でこそ、文化人や芸術家は自分でお金を稼ぐことが出来ます。普通の人が出来る仕事になっています。しかし歴史的には高度で洗練された文化は遊民が担ってきました。遊民となり得たのは教養のある支配階級でありました。
  支配階級はパトロンとしても芸術家や文人を養ったのです。支配階級の文化だから駄目だなんて言いますと、高度で洗練された文化、世界に通用する文化をもてなくなってしまいます。現代の視点で、過去の文化活動を批判する事になるのではないでしょうか。

 日本の万葉集や古今和歌集も支配者階級の文化といえばそうです。でも大きな文化遺産になっています。国民がその文化を共有すべきだと思いますが・・。
高知シティFMでの収録風景です。

 収録風景です。矢野さんは豊富な国際交流の経験をもとに、わかりやすく、丁寧に「支配者の文化と民衆の文化を区別することはおかしい」と言うことを説明いただきました。

 なんとなく土佐は、山内家に抑圧された長曽我部の郷士が、幕末の維新の回天をした国と言う「一元的な歴史観」に私自身がとらわれていました。

 支配者の文化であるから駄目だということになりますと、古典のすべてを否定することになります。そうしますと万葉集では防人の歌や東歌しか評価されないのですか?
 柿本人麻呂や山部赤人や額田王は当時のエリートなのですね。源氏物語や枕草子も宮廷の女性が書いたものです。
 土佐日記は京都の朝廷が派遣した行政長官の国司紀貫之の作品であります。支配者の文化と言ってたら古典の全てを否定することになります。
 矢野さんは「文化水準が高い古典は日本人の尊厳を造りあげている国際社会・異文化社会で生きるには、古典は重要だ。」と言われています。50カ国を訪問された矢野さんの体験からもそうなのでしょうか?
 国際人といえばまず英語が出来ることと考えるのではないでしょうか。しかし外国語が出来ることは、国際人の証ではないと私は考えます。
 ということは、「グローバル化」というのは、「無国籍化」になるということではありません。世界に生きるということは、実は世界に文化的に貢献することなのです。それは日本の文化があってこそだと思います。 自らの文化の背景があってこそ、独自性が発揮されるのです。
 これまで日本はアジアの唯一の工業国でありました。それで国際的にも評価されていました。最近では、韓国と中国に追いつかれていますね。
  中国でもない、韓国でもない。日本独自のもの。それは古典と言うものによりどころがあります。やはり自らの文化の背景があってこそ、独自性が発揮されます。

 高知県の文化博物館、資料館の展示や保存はいかがでしょうか?何か問題はないのでしょうか?水準の高い施設はありますか?

 高知県には各種の庶民文化記念館があります。文化財の保存は、庶民の文化、支配者の文化というような二者択一の議論ではありません。金が無いのなら金が無いなりに工夫をすべきでしょう。
 私の家に土蔵があります。子ども達が小学生の時に、小学校の校長先生から「お宅の土蔵の中のものを出してください。町の文化会館で展示したいから。」と言われました。1年ぐらい展示するとのことでした。
 私はその話を聞きまして、お断りいたしました。そんなことをしたら、今まで何百年も(先祖代々)保持してきましたものが、1年でぼろぼろになります。
庶民の武士邸跡(大川筋武家屋敷)
自由民権記念館
 それは、その文化会館ですか、公共的な施設で1年間展示するということが、保管状況であるとか、展示のやりかた自体が、矢野さんは当時しっかりしていないと判断をされたからなのでしょうか。

 実は今回ある骨董商のおばあさんに、「私は高知シティFMで高野切れの話をするんですよ。」と言いました。すると「あんなものを県に買わしちゃあ駄目だよ。」と言います。何故と聞きますと、そのおばあさんは、ある美術館で掛け軸を館員が一人で入れ替えをしていて、粗雑に扱いをしていて不注意で床に落としてしまったのを見たそうです。骨董商のおばあさんには、「なんと文化財を守るという意識が希薄だろう。だから、公立の資料館に文化財を集めたら、かえって、良くない、文化財が博物館の中で、朽ち果ててしまう可能性が高い。」と言われました。


 「今まで何百年も保存していた文化財が、公共の博物館の中で、数十年も経過せずに、駄目になるだろう。そういうところに置いてはいけない」と。
 これまで、県が高野切れを購入することに反対意見が多かった裏には、こうした県がやってきた、これまでの文化財の保全のやり方に対する批判や不信もあるのではないでしょうか。
 職員の仕事の熱意に対して疑いを持っている人もいるのではないかと言うことを感じましたね。

   

 ジンバブエの元大統領ガウンダ氏の大統領官邸跡が博物館になっています。

しかしながら展示品の管理は十分ではないようです。

「朽ちるがままの文書展示」(右上写真)

「錆びるがままの大統領専用車」(左側の写真)

 高野切れもこうはなりやしないかと専門家は心配されています。

(写真は矢野啓司さん提供)


 そういたしますと高野切れは、本来は山内家の人たちが保有されていたほうが、結果的には良かったのにということになるのでしょうか?

 私は山内家が資産を持って維持できるのであれば、そのほうが良いと思います。こういうことがあってはいけないと思いますが、公共施設の場合は、博物館などには数年程度の「腰掛」的な人事異動で来られる職員もおられると思います。


 「なんで博物館なんぞに来てしまったんだろう。」そういう風な意識で勤務につかれる方もいないとはいえないでしょう。そういうことが重なりますと、貴重な文化財が、散逸するとは言いませんが、朽ち果てていく可能性はありえます。
 文化財を守るという機能を持った施設の中で、しかも専門家の前で朽ち果てるという悲劇が起こる可能性があります。

矢野啓司さん
 矢野啓二さんがアフリカ諸国を視察されたおり撮影された写真を提供いただきました。「支配と被支配」を考える時、南アフリカ共和国の現実を見ると理解できるのではないでしょうか。
南アフリカの白人居住区。緑が多く整然としています。
南アフリカの黒人居住区。訪問時には舗装もされていません。
フォートレッカー記念館
 

 南アフリカブレトニアにある博物館。白人入植者の「苦難の歴史」が白人入植者の観点から描かれた展示がされています。

「美しい街ブレトニアを作り上げたのは、白人の指揮による黒人の労働である」(矢野啓司さん)

「フォットレッカー記念館には黒人の立場を理解する視点は全くない。」(矢野啓司さん)