日本文化の多様性と連続性について
 今週のゲストはリバプール企画代表である矢野啓司さんです。矢野さんは元国家公務員で、英国とインド等に赴任されていました。カントリー・レポートライターもされていました。世界50カ国を訪問されています。
 今日のテーマは「日本文化の多様性と連続性について」でお話を伺います。アジアにあり、欧米文化の洗礼も受けている日本。多様性があることはわかるのですが・・・。
日本文化は、かつての先進国である中国や、欧米の「コピー」であると言われたり、自ら蔑んだりしました。歴史的にも全然そうではなかったように思いませんが。どうなのでしょうか?
 日本が外国からの文化的影響を受けないで全くの独自に発展した文化の要素を探すと、際限が無く、解らなくなるし、自信を失ってしまいます。
 外国から言われる「日本人はコピーが上手い」というのは、日本に対する対抗心から言われています。また意図的に日本人を蔑む心もあると思います。
 そういうことを言われますと日本人は反省します。「反省するのはサルでも出来る」。日本人は反省猿の心も持っています。すぐに「ごめんなさい」を言ってしまいます。そういうことで、「私たちには独自性がないのかな?」と考えがちになりますね。
矢野啓司さん
 しかし、それでは、どの国が完全に独自の文明を築いたかと問えばどうでしょうか。古代ギリシャはエジプトからの文化の影響を受けています。またアッシリアの影響もありました。
 西洋文明は、ギリシャやローマの影響を受けています。
中国だって、独自の文化と言ってはいますが、インドからの影響というのは多大です。
そもそも、文化や文明はは相互作用の産物なのであると考えたらよいと思います。相互作用で、お互いが影響しあうから良くなるのです。
 そういう目で日本の事を考えれば良いのです。
  高知の話題であるし、高野切りが出発点であることから考えれば仮名文字を使っていることこそ、日本が誇るところだと考えます。紀貫之から出発しているのです。そこに私達の独自性があります。
「表音文字と表意文字の融和こそ日本の独自性だと考える」そこから出発したらどうかと、申し上げたいわけです。
 矢野さんは、高知大学へ留学されていましたポーランド出身の留学生との交流のなかで、感じられたことは何でしょうか?
 日本文化の多様性と連続性についてはどのように感じられたのでしょうか?
 私も驚いたのですが、ポーランドには、日本の鬼神学があります。
  高知大に留学したポーランド人マルチンが「魑魅魍魎?」ということを私に聞いてきました。いろいろ考えましたが、彼の頭には、アウシュビッツのホロコーストなど鬼の歴史をかいくぐってきたポーランドの失われた悲痛な魂の叫びと、日本の鬼神の存在に、共感するものがあるようでした。
 不幸に亡くなってしまった人の悲しい霊と日本の鬼。日本では不幸にしてなくなられた人が神(鬼)になるという文化があります。それを彼は鬼神学を通じて見ているのでしょう。
 ただ悲しいことに彼は、中国、朝鮮半島、日本の関係を、ロシアとポーランドと、ドイツの関係に重ね合わせています。どうしても日本の独自性を考えると、ドイツのことを褒めてしまうような気がすると。そこでブレーキがかかるようでした。
 そこで日本のことを朝鮮半島の影響で見たいと。ようするに日本は独自性がないと。こんなところからも頑張られてしまうのですね。このあたりで彼とは「馬鹿を言うな」と議論をしているところです。
 矢野さんは「石の神殿は廃墟となれるが木製の神殿は廃墟になれない。木造の神社を継続維持した事の本質を理解すべき」と言われています。私には良く理解出来ませんが、そのあたりはどうなのでしょうか?
グレートジンバブエ遺跡は巨大な石の遺跡(ジンバブエ) 写真は矢野啓司さんに提供いただきました。
 

 ジンバブエにあるグレートジンバブエ遺跡。巨大な石の遺跡群です。13世紀から15世紀にかけて造られています。(日本では鎌倉時代から室町時代)

 当初ヨーロッパの人たちは、アフリカ人が建設したと考えず、否定的で「シバの女王の宮殿跡」であるとか、イスラム教徒の建築物ではないかと言っていたそうです。

 そのいずれでもないことが判明しました。巨大な石の遺跡に比べ、左の写真のように居住地域は簡素であったようです。

(写真は矢野啓司さん提供)

 私たちが中国やインドやヨーロッパに旅行いたしますと、素晴らしい石のお城や宮殿があります。遺跡がたくさんあります。
 ところが日本では飛鳥に石舞台がありますが小さなものです。とてもでありませんが、中国やヨーロッパには比べられません。しかし日本には文化があります。
 それは伊勢神宮を見ていただいたらわかります。確か、40年ごとに建て替えています。過去2000年の間やってきたことです。石の文化は廃墟となって遺跡として残っています。
 日本の場合は、神社は絶えることなくずっと生命を維持しています。それを止めますと日本の神社はすぐに朽ち果ててしまいます。継続していくという証拠がここにあります。
 それが素晴らしいことであると思います。
 観点を変えた質問です。高知にはよさこい踊りがあります。日本文化の多様性と連続性という観点から言えばどうなんでしょうか?
 例えば、最近のよさこいは,正調から外れ、サンバやいろんなリズムを取り入れています。
インターナショナルといえば聞こえがよいが、無国籍化しています。それは、現代的な一般性を追求し、大衆参加を目指したら、あのような形になったとも見えます。そういう柔軟性がよさこいにもあっただろうと思います。
 肝心なところは、よさこいは「鳴子を必須」としているところにあると私は見ています。そこに土佐から発信している理由があると思います。 外国の祭りであれば、キリストなどの強烈な神を中心に据えますので、必然的に文化的な主張が表に出ます。
 よさこいは文化的な主張をしていないように見えて、鳴子を使用することにより、 私は、鳴子は、神社の前の祭殿での柏手を大きくしたものと、類推しています。「神様、神様、やおよろずの神様・・がちゃがちゃがちゃ」と言っているのではないでしょうか。
 そこによさこいの意味があると思います。強烈な自己主張ではないが、きちんと、日本から発信するそれがよさこいであり、日本の独自性ではないでしょうか。
 やおよろずの神様が、他人を排除するのではなく、仲良くする。そこがよさこいの私なりの解釈で土佐として誇るべきところであると思います。
 今や札幌に行き、日本全国に広まっていますけれども、よさこいは結構文化的な背景があったのではないかと私は思っています。