日本の文化に貢献する土佐の国
 今週のゲストはリバプール企画代表である矢野啓司さんです。矢野さんは元国家公務員で、英国とインド等に赴任されていました。カントリー・レポートライターをされていました。世界50カ国を訪問されています。
 今日のテーマは「日本の文化に貢献する土佐の国」でお話を伺います。
高知と言えば幕末の志士である坂本龍馬ばかり強調される人達が一部にいます。紀貫之や山内家の文化的価値も見直すべきなのでしょうか。
 幕末の志士の評価のポイントは,日本が欧米の列強に遅れを取らない対応を導いた先人である事です。先進国に追いつく礎になったと言う点で評価されています。
 紀貫之と山内家に共通するのは、「仮名文字を通した日本文化のバックボーンの確立者であることと、それを、きちんと守って維持してきたこと。」です。
 ともに紀貫之も山内家も土佐の国の指導者であったことです。その強烈な自負心がありましたから、山内家は紀貫之を守ったわけです。
 それを土佐の国の政府である高知県が守る。それを後世に伝えていく。ひじょうに偉大な仕事であると思います。
かつて山内家支配の象徴の高知城
高知県庁本庁舎
 
 矢野さんは、仮名文字に育てられた日本の文化があり、韓国のハングルとは異なる育ち方をしています。ハングルは最近まで公用文に使用されなかった。使い始めると漢字を排除したそうです。
 現代では、漢字文化圏は危機にあります。中国では略字体で漢字が読めなくなっている若い人が多いそうです。仮名文字は貴族の文字だとしていたら日本文化はない。」と言われています。その意味の解説をお願いします。

韓国の首都ソウル。看板表示は殆どハングル。

ハングルを理解できなければ、「めまい」がしそうな街でもある。

 文字には「表音文字」(音をだけを書く。ローマ字や仮名)と、漢字のように「表意文字」(一字一字が意味を持っている)があります。
 世界の文字形式と言いますのは、表音文字を中心になっています。表音文字化と言いますか,例えばハングルなどはそうです。中国の漢字の略字化も表音文字に近づいています。
 だけれども表音文字には大変な危険があります。それは意味が「変動していく」からです。
 西洋の文字は実はラテン語から3000年を経験して表示形式が出来ています。(ヨーロッパ語はラテン語の派生で過去3000年以上をかけて表音文字で記録された言葉の概念体系を形成しています。)
 日本の仮名混じり文は実は1500年も経って出来上がった表現形式です。こういう1000年以上の長い経験を経て私達の「書き言葉」が出来ています。
 もっとこのことを言いますと、「民主主義」という言葉があります。英語では「democracy」と言います。英語では「demo」というのは「多数」という意味です。
 「cracy」は「制度」です。「多数者の制度」ということになりますので、意味が安定しています。

英語でも、一つ一つの言葉は各種の要素に分解される


democracy demo+cracy
多数者の制度


demonstration demography


ある意味では、表音文字を表意文字化している部分があります。
このようにして、文字という文明の利器を確立しています。

 漢字で書けば「民主主義」ですから、民が主体の主義であリますから、英語の「多数の制度」と似ているなということになります。
漢字文化圏では表意文字の漢字が概念形成の根幹にありました。

 ただひらがなで「みんしゅしゅぎ」と書かれたらなんのことかわかりません。

  朝鮮民主主義人民共和国といわれると「みんしゅしゅぎ」の国と思うという解釈が現代の韓国の一部で行われていると聞いています。「民主主義人民共和国」と言っているから民主主義の国だろうと、意味が変動していっています。これなどは意味が変わっていっている事例ではないでしょうか。
  日本語でも、漢字を排除して大和言葉だけで文章を作ろうとしたら過去の文化遺産の継承はできません。日本語は仮名と漢字を融合させることで安定した文化形成が可能となっているのです。
 日本の文化に土佐が貢献したと矢野さんから伺いました。今までであれば、土佐の歴史と言えば、坂本龍馬に象徴される幕末の志士ばかりが脚光を浴びていました。
 高知県の歴史的な文化施設なども殆どそれに偏ってしまっているのではないでしょうか。「一元化されている」というのは言いすぎかもしれませんが、文化的な背景や、本来の意味が、「高野切れ」の話をお聞きしまして、始めて理解できたように思いました。そのあたりをどう考え、整理したらよろしいのでしょうか?

ガテァマラで生活する現地の人達。近代文明を拒絶される人たちも少なくないそうです。

(矢野啓司さんより「写真提供いただきました。)

 私も「高野切れ」の仮名文化に対する貢献は、「新発見」だと思いました。そこからいろいろと考えて見ました。
 日本人は何が大切か。日本人がなぜ日本人であるかを考えてみました。実は仮名まじり文を書いている。漢字と仮名の混じった文を書いています。ひじょうに素晴らしい文化です。客観的に正確な文章を作ることが出来ます。
 それが私達の現実の生活の世界をつくっています。高知県が、いや土佐の国が貢献したのです。この証拠品を残してきた。
 紀貫之は実は日本で最初に仮名を公式文書、文学作品に使いました。その彼の記録と信じて山内家は「高野切れ」を残しました。「仮名文字を造って、仮名文字を公式なものに使ってその記録を残した。」それを「土佐の国」というキーワードで山内家は必死になって守りました。
 山内家が残したからこそ「高野切れ」が現在あります。私たちは文化的な文化財としてとして見ることが出来ます。公共の博物館で見ることが出来ます。ここに中心を据えたら、「誇るべき高知」の「誇るべき文化」というものの拠り所が見えてくるのではないでしょうか。

 そういう期待を今回の「高野切れ」論争で私は見ました。

矢野啓司さん
 今の日本は工業的にも、他のアジア諸国に追いつかれたり、なにか元気がないように思います。あるいは日本人は独自性がないなどと言われますと、自らを卑下するような傾向があります。そうではないと・・。
 私は文字表記の問題としまして,英語の表記は、表音文字であるけれども、いくつかの文字でグループをつくることによって、表意文字化しています。日本の仮名まじり文と一見似ています。
 そういう広い意味での文化的な形成過程に、わたしたち土佐の先人が貢献いたしました。見る人によれば紀貫之は京都の人。山内一豊は土佐には数年しかいませんでした。そうは言いますけれども、土佐を広めました。紀貫之は「土佐日記」の作者でありました。
 山内一豊は土佐藩主として、紀貫之の遺品を後世まで残しました。現在の私たち、土佐の国の人間としましては、これを未来に継承していく。プライドを持って継承していく。大事ではないかと思います。
 そのように今回の「高野切れ論争」を横で見ていまして私は感じました。
土佐国府跡『「紀貫之が執務していた)
高知城三の丸
 
*ガティマラと南アフリカ、ジンバブエの貴重な写真は矢野啓司さんより提供いただきました。
2月番組に戻ります