アンダンテな暮らし 5
風土と人とまつり
 
以前、東京の佃島で、旧住民とウォーターフロント開発で流入してきた新住民との間で、祭の参加を巡りちょっとしたいざこざがあった。
伝統の神輿を担がせて欲しいと要望する新住民に対して、神社の清掃や寄進などの実績のないことを理由に、旧人民から「待った」の声が上がったのだ。新住民は「祭は地域の財産。楽しみを共有する権利がある」と主張。しかし、旧住民は「祭を継承するための義務を果たしていない者には、権利もない」と反発した。
かつて、祭は先人の知恵や経験を若者に継承する場であり、大人になるための通過儀礼であったはずなのに、いつしか単なるお祭騒ぎになってしまった。現代人は祭りに何を求めているのだろうか。

私の郷里・高知のよさこいまつりが、最近、話題になっている。五〇年前、地元の商店街が集客目的にできた祭だが、これを見た北海道の学生が一九九二年、第一回YOSAKOIソーラン祭りを札幌で開催。以来、各地に飛び火。現在、よさこいを取り入れたまつりやイベントは、全国に百以上もあるといわれている。


 元祖よさこいは、高知県の古謡であるよさこい節を元にした「よさこい鳴子踊り」で、鳴子を手に「ヨッチョレ、ヨッチョレ」の掛け声とともに踊るものだった。しかし、時代とともに様変わりし、ロックやサンバ調なども登場。その自由奔放さが好まれている。
高知には「ふりーじゃきに」という言葉があるが、これは維新の志士坂本龍馬が、何事にもとらわれない自由の精神こそが日本の近代化に必要、と説いたことに由来した土佐弁。ふりーとはFREE。まさに「ふりーじゃきに」を体現しているのがよさこいと言えそうだ。
よさこいの決まりは、鳴子を持って前進する踊りであること、よさこい鳴子踊りの一節が曲の中に入っていることだけ。リズムもテンポも、メロディーさえも自由自在。衣装や化粧も参加者のセンスで如何様にもアレンジできるのだ。

 
 

毎年、長い準備期間を経て、趣向を凝らしたチームが、個性と情熱をぶつけ合う。素人バンドの発表会、コスプレ大会、美容師の腕の見せどころなど、さまざまな副産物をもたらして、文句なしに楽しい。


高知県の気質として良く知られる「いごうそう」は、偏屈、個性的、頑固などの意味を併せ持つ。いかに他者と違う自分を演出するかを競い合う精神風土に育ったよさこいは、この土地と一体のものだ。


それがどんなに魅力的であっても、模倣はオリジナルの力には勝てない。それをみんなが気づくのはいつのことだろう。全国に広まったよさこいの輪を誇らしく思いながらも、フランチャイズを見るようで妙に空しいのは私だけだろうか。

IKUKOさんの庭よりの秋の便りです。
 
 

『カレント8月号』掲載の「アンダンテな暮らし5」と
去年の庭花です。


秋の香りをお届けするには、今年は天候が不順で
なかなか良い画像が撮れずに苦戦しています。