農村風景で勝負を
 
「スローフード」や「地産地消」についての講演や論文の中でよく「身土不ニ」という四文字熟語が使われている。これは仏教用語で「不ニ」は「二にして二に非ず一なり」要するに「二つのものが非常に関連が強く表裏一体の関係にある」ということだろう。「身土」は「自身とその土地」となり、「自身とその土地は一体不ニ」ということになる。
 「地産地消」では、「自身の住む四里四方の食材を食べることが食の基本」というような捉え方をしているようだが、読んで字の如くもっとストレートに見ることもできると思う。同義語でもう少し広義の意味の仏教用語に「依正不ニ」という言葉がある。「依正」の「正」は自分自身、「依」はよりどころ「自分をとりまく環境すべて」となり、「自分自身とそこをとりまく環境は一体不ニ」となる。この言葉自分自身を「正」と呼び、自身を主体に置いている。この言葉の意義は、「自分自身が変われば、とりまく環境も変化してくる」「自分自身が良い方に変われば環境も良くなり、悪く変われば環境も悪くなる」ということだ。この「環境」はいろいろなものが含まれているが、その中に「国土世間」(住む地域の国土)もある。これも仏教用語だが「国土世間」をどう見るか。私は「風景」「景観」で見たい。こういう見方を仏教では「相」という。ここでは「住む地域の相」ということになる。「相」はその主体の「性」(性質や心象)の現在の状況が表面化しているもので、主体(「依正」でいえば「正」)の性質やレベルを端的に表す。
 では「国土世間」(住む地域の国土)の場合の「正」はどうなるか、当然「その国土に住む住民」となろう。故に「その地域の風景は、そこに住む住民の性質や文化レベルを端的に表す」となる。「ややこしや〜」になってしまいましたが、常々私が感じていることだ。
それでは最近の風景(特に農村風景)がどう変わってきたかにより、それによりそこに住む住民の性質や文化レベルがどう変化してきたかがわかることになる。「30年前に比べ間違いなく風景・景観が良くなった」と言えるところが県内どれだけあるだろうか。道路の整備、河川改修、ほ場整備、砂防堰堤、人工林化、農業の単一産地化、農薬の過剰散布、プレハブ住宅、都会的な住宅団地化、種々の開発等々。便利・効率・標準・利益を最優先にした現在の経済至上主義は、便利になり金銭的に裕福になり「快適な生活」にはなったが、海岸はブロックだらけ、河川は水路に、一律な住宅団地、谷は砂防堰堤だらけ、農業用水路は三面張り、山は人工林の単一相、棚田は放棄等々、風景・景観・生態系を壊し続けている。先の論理に依れば「依」の中の「国土世間」の「相」がどんどん悪くなっているということは「正」である住民の性質や文化レベルが悪化したからになる。

 先日の高知新聞紙上で東大名誉教授の養老孟司氏がいい表現をしていた。「上澄みの生活、拒否せよ」(自分だけでは生きられない世界で、金の力でいわば上澄みをとって「快適な生活」を楽しんでいるのはエゴイズム以外のなにものでもない)と。

 風景・景観である「相」や「依」を再生する運動は「正」である住民の性質や文化レベルを向上させ、「上澄みの生活」を拒否することになっていくのではと。こういう運動が地域活性化の結構近道ではと。


 先日高知市主催「景観講演会」で俳優の渡辺篤史さんの講演の中でフランスでの経験をしきりに述べていた。美しいフランスを守る活動(風景や伝統文化を重視したまちづくり・地域づくり)の基点になった哲学者アンドレ・マルロー氏、モネ、ゴッホ等。

 皆、かつての日本の風景・自然との結び方・生活様式等から深く真剣に学んでいたことを強調し、もう一度日本もかつての風景・自然との接し方を取り戻そうと、力を込めて訴えている姿が印象的だった。

 また、湯布院「亀の井別荘」の中谷健太郎さんが農文教の雑誌で地域づくりの目標にしている南ドイツの農村を紹介し、この村は美意識を地域づくりの根幹に置き農村空間を豊にすることを追い求めてきた結果、風景が美しくなったこと・農産物が美味しくなり料理が美味しくなったことで、ヨーロッパ中から人が来始めたとの成功事例を。お二人ともまち・むらの空間をデザインし直し、いわば「なつかしい未来」(農文教の言葉)を再生しようと叫んでいる。


 同じく「まち並み」「むら並み」を保全・再生することで地域活性化が成功しつつある町が意外に近くにある。愛媛県内子町だ。伝統的建造物群保全地区に指定されている「まち並み」保全地区は有名だが、あまり聞き慣れない「むら並み」保全(石畳・論田地区の農村風景の保全活動)を見たときはかなりの感動と驚きを覚えた。峠を越えて論田地区を望んだ風景はまさに昔なつかしい「ふるさと」の光景だ。畑は地形に沿ってゆったり続き、畑と畑の間には柿等の木が植えられ、谷と畑の間にはブッシュがあり、ところどころにもっこりした雑木林、連なる山も雑木林、棚田の畦には濃い緑のシレイ、農作物もいろいろ作られておりそれぞれ畑の趣が違う、畑や軒下に乾された作物、家屋は伊予の独特な家、壁は白壁、屋敷林も、石垣は細長い石を使ったくの字型の石組み、木の橋、水車、風よけと思われるヨシの囲い、家の横にきれいに積まれた薪等々、生活されている方々の顔が何とも誇らしげに見える。

 この内子で作られた農産物は「美味くて、安全」ということが定着し、直販所道の駅「からり」には松山や伊予市からワゴン車に乗り合わせた主婦がにぎやかに買いに来るそうである。この地域の風景はその理由を十分納得させてくれる。まさに「なつかしい未来」を実現しつつあるようだ。この「むら並み」保全運動を十数年前に起こし推進されてきた元役場職員の岡田さんに時々話を伺える機会がある。「むら並み」保全の重要性をどう理解してもらうか、風景を破壊する開発や公共工事をどう対処するか等、苦労は多かったようである。また、まだまだ問題も山積しているとのことである。しかし「失敗ばかりですよ」と謙遜する岡田さんの顔からは結構満足感が感じられる。


 この内子町の風景を見ていると、子供の頃(30数年前)母の実家から見た斗賀野の風景を思い出す。朝霧に沈む盆地の中、点々と置かれた藁小積みの間を汽車がゆっくり走っている光景や、「鳥の巣の米はうまいぜよ」と自慢するおじさんの顔等々。山と盆地の絶妙なコントラスト、その間をぬって走る川、複雑な地質と美しい植生、棚田や果実農園、酒蔵と古い町並み、佐川は県下でも有数の農村風景で勝負できるところだと以前から思っている。強いところを伸ばす。勝負の鉄則だ。風景はその地域の「相」、住民の価値観・文化・経済等の結果のあらわれだ。内子町のように、フランス・ドイツの先進地のように美しい「風景」を意識した、また中心の地域づくりを進めてほしい。

「ふり返れば未来」
 小学生のころ祖父と祖母の手伝いでよく山の畑へ出かけた。山の麓から一時間ほどかかり結構しんどかったものだ。主にイモ類を作っていたように思うがあまりはっきり覚えていない。ただ収穫した作物を背負って降りる祖母の丸まった背中はよく覚えている。近所の屈強そうなおじさんが"肥えたご"担ぎ山の畑にあがる光景もよく目にした。この一時間あまりの道中には、子どもならではのいくつかの"ポイント"があり今でも鮮明にその光景を懐かしく思い出すことができる。麓からしばらくはシイ・カシの鬱蒼とした尾根づたいの急な坂道が続くが10分ほどで日当たりのよいなだらかな尾根道に変わる。ここは落葉系の低木が道の脇にゆったりとあり見晴らしが利き、道にも芝生のような草が生え弾力があり、野鳥も結構多く、ゆったりとした気分になれるとても気持ちいい場所だ。野鳥ではメジロが多く友達を誘いよくメジロ取りに興じた。
 しかし友達はうまく捕獲するが私は一度もゲットすることができなかった。この場所から少し上がったところに春になるとワラビが結構密生するところがあった。時期を見計らい母とワラビ取りに行くのが家族の行事になっており、先に誰かに採られてないかドキドキしながら足早に向かったものだ。ちょうど道中の中間地点あたりに「休み松」という大木があり、根が四方に露出しそれに座って休めることから誰からともなくそういう名が付いたようだ。ここも私のお気に入りの場所で、他の木と間隔が絶妙で明るくなんとも落ち着く場所だった。ここで休みながら持参したお茶を飲むのが常で、時には腹が減り昼食用に持参したおにぎりを早々と食うこともあった。この「休み松」の手前だったか先だったか記憶がはっきりしないが、尾根からの斜面に"ミヤマクワガタの林"があった。夏ここに来てこの木を足で蹴るとバラバラとミヤマクワガタが落ちてくる。この"バラバラ落ちてくる"のが面白くて友達と時々取りに来たがこのクワガタを友人に披露しても注目は浴びることはなかった。この林はしいたけの原木にするためのクヌギの林ではなかったかと思われる。
 最後に畑に着く手前に谷がり、この谷の脇に石垣をついでいるところがあったが、ここが日陰で湿りがあり"ハメ"がよく集まるところとのことで祖母から「よう気をつけよ!」と言われた。ここを通るときはいつも緊張し、拾った棒切れを振り回しながら足音を余計に立てながら足早に通り過ぎたことを思い出す。しかしここでハメを見かけた記憶はない。こういういろんな思い出のあるこの畑も祖父が他界後杉の林に変わった。この後この道中を往復することもなくなった。このころから高知の山は濃い緑の針葉樹、静かで一律な山並みに変わっていったということか。

 昔は山が生活の場でいろいろな活用のされ方がなされていた。畑、田、山菜、狩り、水、薪、肥料、材木、遊び、祈り等々。傾斜があり気候もきびしく生きのびるための労働はきついが資源は豊富にあった。自然と共生する知恵があり、そこに文化が存在し、懐かしい風景があった。しかしここ数十年で山の様相は一変した。拡大造林、林業不況、過疎高齢化、非効率等から山との共生の生活がなくなった。自然林・雑木林が杉檜の人工林に変わり、ドングリや落葉が消え鳥や動物も消えた。畑や棚田が人工林に変わり、山並みや谷の水が貧弱になり、人工林が管理されなくなり人も消えた。人工林はそれなりに大きくなり、増えすぎた木々は大量に水を吸い上げ、荒れた林床は雨が降ると水は表層を流れる。大雨が降れば谷は一気に増水し、冬、谷は涸れる。川は水量が減り魚族の生息空間が減る。

 川の風景も変わり、海の生態系へも影響する。もう一度豊かな森を取り戻したい。山へのあこがれ、森への畏敬、土佐人は皆潜在的にこういう遺伝子があるのだろう。年々こういう思いが強くなってきた。そういう折りに「焼畑」との出合いがあった。地元の伊野町が焼畑が盛んだった本川村と合併したのも興味を持つ引き金になった。私は焼畑の研究家でもなければ経験者でもない。しかし、「ヤキハタ」と言う響きは妙にワクワクさせられる。

 見てみたい、やってみたい。焼畑を実践することにより山の文化を実感してみたい。焼畑の実践で山の魅力を増やし山とまちの交流を拡大したい。焼畑を起爆剤にして豊かな森への一歩としたい。等云々。最終は森・里・川・海の水と生態系の循環を豊にする活動に貢献したいとの思いである。焼畑が直接循環を豊にするわけではないが、かつてを見習い、山をいろんなことに活用することが豊かな水と生態系の循環、さらに豊かな山の風景の復活につながるだろう。焼畑はその入り口にしたい「たかが焼畑、されど焼畑」である。「土佐の焼畑」は国の無形民族文化財に指定されている。
 
 
 
 
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